活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

2018-01-01から1年間の記事一覧

「今」ということ1

私たちの日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか 生活が出来ていないと思います。 すなわち「過去というのは過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ 来らずのこと」なのに往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種に してしまって…

「法」を求める態度

修行している間は、(修行に期間があってはなりませんが)まず自分を 忘れなければなりません。 一度自分の考えを捨てないと道元禅師のいう「仏道をならうは自己をならうなり 自己をならうというは自己を忘るるなり」になりません。 考えと自分とは別のもの…

秩序と階級3

ですから、「その事実を知っても知らなくてもそういうふうになっている」 ということです。 実に「不思議」です。 「不思議」とは「思議(考え)の及ばないところ」ということです。 前後を見ないで今の事実に徹して下さい、今の自分の様子を見極めて下さい。 …

秩序と階級2

秩序と階級はすべて「因と果」が元になっています。 大きな因をつくれば大きな果を得るし、小さな因を播けば小さな果を得るのです。 これは「理(理論)」として当然のことです。 ですから、誰がつくったものということはいえないのです。 これを「因果無人(…

秩序と階級1

今は自由にものがいえるようになりました。 同時に民族意識とか民族の思想というものが、いわれるようになってきました。 そこで好き勝手なことをして秩序が乱れたり、階級がなくなったり、今、 世界中が混沌とした状態になっています。 よほど各々(おのお…

二重の迷い2

さらに成人してからも「観念以前の事実(本質)」を知(識)ることが 出来ないまま「自己の現実と理性との間」に矛盾が生じてしまうのです。 これが「もう一重の迷い」です。 ですから、私たち衆生は「本質(認識以前の存在事実)」を知(識)らなければ ならな…

二重の迷い1

「人間(じんかん、世の中、世間)」では、子供の成長すなわち物心が ついた時を「知恵がついた」といいます。 しかしこれは「一重の迷い」なのです。 それは、子供時代の「物心のつく時の観念(認識以前の存在事実)を観念だという自覚」 がないからです。 …

業について5

「自我」がものを認めることに因って「業、因縁、因果」というものが つくられる訳です。 相手を認め、自分を認めれば溝が出来ます。 溝が出来るから苦しいのです。 そのくるしみを「地獄」といっています。 「地獄」は亡くなってから行く所ではありません。…

業について4

「覚者」は方便を駆使して輪廻転生を説き、「宿業、因縁」を唱え「無明業」 からの脱皮をすすめるのです。 ここで注意しなくてはならないことは、「悪業」も「善業」もともに 自分を認めることから作り出されるものですから、「悪業も善業」も 両方とも持っ…

業について3

自我意識の芽生えによって、諸々の思想や迷いが必然的に生じます。 これらの二見相対の思想が「縁」となり、おシャカ様の教えを知り、 その教えに導かれて自我意識は本来の本質ではないことが次第に理解されて 「求道(ぐどう)」の生活が自覚されるのです。 …

業について2

「妄想」は「自分に執着する自分(自我意識)そのもの」ですから「業」を 明確に理解する為には、おシャカ様の教えに依らなければならないのです。 何の理由や目的を持ってわれわれは今の世に出生したわけではありません。 それが数年経過して、すなわち世間…

業について1

「今」というほんの短い瞬間の中にも「原因と結果」という「因果の道理」は 必ずあるのです。 それでは何がその前後のものを引きずっているのかというと、「業(ごう)」というものです。 「業」というものは実体があるものではありません。 みんな「自分(自我…

真の解決

「自分が自分を解決していくこと」が真の解決です。 別の言葉でいえば「問題の所在が解決の場所」とならなければなりません。 「自分を認める」ことによって問題が生じ、「自分を忘れる」ことによって一切が解決されるのです。 「自分が介在するか否か」で迷…

道について3

全てをそのまま自分のものとして受け入れられるようになった人を 「道人(どうにん)、道の人」と称します。 聖典、仏典は事実を語っていません。 これらは「事実そのもの」ではなく、「薬の効能書き(事実の説明)」にすぎません。 どんな状態であっても「悪い…

道について2

「道」というものは「いつでも、どこでも、何をしていても事実としてある」 ということを承知していただきたく思います。 現実の自分の問題として取り組み、「問題意識そのもの」に成って生活して行くことが 必要なのです。 「道」には正しいものとか、正し…

道について1

私たち衆生の今の様子を「道」といいます。 「今の様子」というと、「今の状態」だと認識するものがあると思いますが、そういうものではありません。 「今」と自分が「今」を認識した時、「今」は過去のものになってしまいます。 「認識を起こす以前の様子」…

生死とは3

私たち衆生は始終年を取りつつあります。 年を取るという事の内容というのは、一つのものが二つに成ったのではありません。 その一つのものが変化しつつ行くのです。 そうしてみると形(かたち)というものは先ずないのです。 そこを道歌に「おもかげの かはら…

生死とは2

生まれるということは「生死」に関係なく「唯(ただ)生まれる」ということです。 それだけのことです。 生まれるといって生まれるのではないのです。 唯生まれるだけで生まれるという隙間がないのです。 「オギャアオギャア」というだけのことです。 然るに後…

生死とは1

本来、「生死(しょうじ)」が一つであれば「生死」とはいいません。 二つになるから「生死」なのです。 「生死」に実体がなければ「涅槃」なのです。 それをよく知(識)らなければなりません。 道歌に「田の草を取りてそのまま肥しかな」とありますが、この通…

生と死

現今では「脳死は人の死」と定義されています。 しかし、本来は「生と死」の境目はないものです。 生命には始めはないのです。 始めがないということは、終りもないということなのです。 生といい、死といい、それはそのものの変化の状態、移り変わりの状態…

生の法から死の法へ

息を引き取るということは、「生(しょう)の法」から「死の法」に変わることです。 生(しょう)には「生の法」が、死には「死の法」があるだけです。 その間に人の考えは入りません。 生きている生きていないということではありません。 「今」呼吸をし、話を…

此の物2

私たち衆生は、いつのまにか不知不識に「此の物を自分だと認識」してきました。 しかし「此の物」は自分ではありません。「衆生」なのです。 「衆生」とは「六道(りくどう)を輪廻する存在」なのです。 「此の物」は「象徴」に過ぎません。 そこで「此の物と…

此の物1

皆さんが自分と思っているもの、これは自分でも人でも何でもありません。 「此の物」というのが一番適切な表現なのです。 特別に分けていえば、「此の物」は肉体と精神より成っています。 「此の物の働き」というのは「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働き…

自照霊然たり

「此の物」は聞けば聞いたきり、見れば見たきり、思えば思うだけなのです。 別にどうということはありません。 邪魔にするものはありません。 何が何処に止まっているのでしょうか。 実は何も後に残るものはないのです。 堂々たる「法身(ほっしん)」の様子で…

霊魂とは何か10

「霊魂(心にいちもつ)を認めているから一致することが出来ないのです。 同じことを繰り返しますが、それは、見たり聞いたりするものが此方にあって 見たり聞いたりするのではないのです。 ものの「因」と「縁」との釣り合いでの出来映えなのです。

霊魂とは何か9

余念を交えず、有形(うけい)、無形のすべての物柄事柄と一つに成って、 余念を交えざる時「真諦(しんたい)」が自覚されるのです。 内に何かものがあると思っている、それがいわゆる「霊魂」というものです。 「霊魂」を認めたら物質の世界になります。 それ…

霊魂とは何か8

臨済大師は「病自ら信ぜざるにあり、自信不及にあり」といわれました。 聞く者は何なのですか。 聞く者は聞く者です。 只聞くのみです。 外に我はありません。 そこの「自覚」は、禅を行じて着々親しく、その境に進んでいかなければなりません。 「これだ」…

霊魂とは何か7

「霊魂」は何処にあるのでしょうか。 よくよく考えて頂きたく思います。 「語路を逐わず親しく自己に信得せよ」というお示しがあります。 人の言葉に付いて回るから「人と我」の二つになるのです。 このお示しの真意は、自己に反省を促すのです。 「自己」と…

霊魂とは何か6

本当に生きるから本当に死ねるのです。 本当に生きていないひとのことを「半死半生」といいます。 ですから、「そういう人(半死半生の人)」は「過去と未来」しか見えていないのです。 「半死半生の状態の人」だから「生」とか「死」が問題になって来るので…

霊魂とは何か5

時々刻々、いつでも変化している「無常」ということからいえば 「死」とか「生」とかいうようなことはいえません。 何をもって「生」とし、何をもって「死」というのか、区別をつけることは 出来ません。 始めが分からないのですから、終りも分かるはずがな…