活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

2017-01-01から1年間の記事一覧

「二つの考え」を論ず2

仏教には「煩悩即菩提」というお示しがあります。 普通に考えると「菩提」とは、「悟りだ仏だ」ということになり、 「煩悩」というと様々な思いが乱れてどうのこうのということですが、 仏教の世界というのは比べようがない世界です。 本来の自己に目醒めて…

「二つの考え」を論ず1

思ったものはそのまま、真実でも真実でもないものでもありません。 「思いは思いのままの事実」しかあり得ないということです。 「二つの考え」を同時に自分の心の中に入れることは不可能です。 例えば、「心の中で二つの考えを同時(一緒)に考えてみなさい…

「既知の知」を考える2

何故、自ら気が付くかというと、みんな「信じる信じない」ということから 入って来ているからです。 「信じる信じない」というのは、途中から作り上げたものです。 信じたからものが見える、信じないからものが見えないというものでは ありません。 「信じる…

「既知の知」を考える1

仏教の道理というようなことは、皆さんよく御存じです。 そして、「道(法)」というのはこういうものだ、仏教の教えというのは こういうものだと、「教えの中でわかったとか、わからないということで 終始している」と思います。 しかし、それではいけない…

「問題の本質」を考える4

そういうと「実体、究極(今の事実)というものが有(在)るのか」 ということになりますが、何時でも「実体、究極(今の事実)」だけなのです。 今、今の連続だけなのです。 そもそも私たち衆生は、「思考の次元にはいないという事実」に気が付かなければ …

「問題の本質」を考える3

「のど」が乾く時に「水、水」と言っても決して「のど」の渇きは いやされません。 又、「火、火」と言っても、唇が火傷することはありません。 そのくらい「事実と自分の観念との間」には相違が有(在)るのです。 ですから、どうしても「自分の正体」を見極…

「問題の本質」を考える2

「問題の本質」は、他の知識によって育て上げられた自分だと思っている 自分と、本当の自分との間に問題が生じていることに気が付いて頂かなければ なりません。 そうしないと、「いつまでたっても相対的なものの見方や考え方しか出来ない」 ということにな…

「問題の本質」を考える1

自分という者は如何にして、何時から自分に成ったのか。 自分で自分に問いかけても分かりません。 何故でしょうか。 それは、「人間(じんかん)※」によってそのように教えられたからです。 私たち衆生は「人間(じんかん)」によって育て上げられ(知識を得…

「本覚思想批判」を考える2

そのように、「仏法」というひとつのものに対して論を積み重ねていくと 最後に「私」という自我意識が残ります。 どんなにしても「自我意識(私)が仏法と別なものにしか思えないのです。 どうか、おシャカ様の道を借り、歴代の覚者の法を借りて、 「自分自…

「本覚思想批判」を考える1

「ものがどんどん移り変わっていく」というようなことを聞くと、 「悟りや見性」というのは、今はそうだけどやがて又変わっていくのでは ないかと、考えられがちです。 現に、「本覚思想批判」といって、 「道元禅師の教えは、お若い時分に言われたことと、…

凡聖の違い4

「不思善 不思悪」というお言葉がありますが、善をも思わず、 悪をも思わず、人の考えにそれがふさわしいとも、ふさわしくないとも、 そういうことはどちらでもよいのです。 そういうことをあまり重視しすぎると「道」をあやまります。 ですから、気に入るも…

凡聖の違い3

名は後から付けたものです。 名はいつでも後からのもので、それ以前にそうした「真理」 というものがきちんと自分のところで行われているのです。 今が身心脱落の状態です。 私たち衆生はそれを知(識)らないのです。 人の知(識)る以前に「道」はあるので…

凡聖の違い2

「本地の風光」といっても「本来の面目」といっても、 言葉が違うだけで内容というものは同じことです。 これを「異名同体(いみょうどうたい)」といいます。 どれだけ違うというのでしょうか。 凡夫が唱えてみても、聖人が唱えてみても違いようはないので…

凡聖の違い1

従来の悪習慣があって、どうしても自分の考え方を、 「法」のようにしようとするものです。 それだけすでに立脚地がちがうというのです。 「凡聖(ぼんしょう)の違い」があるということです。 「事実は同じ生活をしている」のに、それに迷う凡夫と それで一…

子供に成る2

「道」を知(識)れば、みんなその通りに出来ているのを、 考えで間違えていただけだということを知(識)ることが出来ます。 それを「自覚」すれば「本当の修行(生活)」が始められるのです。 「懺悔(さんげ)」に因って方向が決まったから、 「受戒入位…

子供に成る1

指導者はよく「子供に成ってしまいなさい」といいます。 「子供に成る」というのは、六根を六根のまんまに純粋になって 自分の力で六根を使わずにその六根の機能のまんまにしておきなさい ということです。 人生における最大の問題は、「此の物の真相を知(…

四病2

第三に「任病」といって、「意に任せて浮沈する」ことです。 吾今生死を断ぜず、涅槃をもとめず、修行などもしなくても よろしい、迷ったら迷ったで捨てて置く、妄想が起こったら 起こったで構わないというふうに放任することです。 第四に「滅病」という「…

四病1

円覚経の普覚菩薩の章の中に「四病」を離れなければならないと 説いています。 第一に、「作病」といって「心を生じて造作する」ことです。 その意味は本心において種々の行を為して円覚を求めようとすることです。 坐禅をしたら悟れるだろうかとか、学問を…

始めて知る衆生本来成仏なることを2

多くの人の修行は「おシャカ様や歴代の覚者の言葉の中の修行、 あるいは、事実を認識(認めた)した上での修行」なのです。 それでは、「本当の修行(本證妙修、修證不二)」にはなりません。 私たち衆生の日常生活そのものが、おシャカ様や歴代の覚者の教え…

始めて知る衆生本来成仏なることを1

円覚経の中に、 「始めて知る衆生本来成仏なることを、生死涅槃猶昨夢の如し」 という一文があります。 「始めて知る」とは、始めに自らが「道(法)」其の物に成って、 はじめて「自分」と「道(法)」との「隔て(距離)」が解消するのです。 それからが真…

懺悔(さんげ)9

道元禅師は「仏道の為に仏道を修す」といっておられます。 大きく懺悔をみれば、自分の罪ばかりか、すべての罪が「法」と なって現われて自他の罪業は清浄無垢(しょうじょうむく)と 成るのです。 自分の為にする懺悔はもとより、善悪なのです。 人の為にす…

懺悔(さんげ)8

懺悔について気が付かなければならないのに、多くの人は うっかりして罪を増すものです。 懺悔は自分の為にすると思っている人がほとんどではないでしょうか。 凡そ我らが「一言一行(いちげんいちぎょう)」は宇宙の為に 他ならないのです。 「我昔所造諸悪…

懺悔(さんげ)7

「敵を愛しなさい」というときの、相手(敵)というのは 認められないのです。 「あいつは敵だ」というものは、最初から認めないということです。 それが仏教でいうところの大きな愛(慈愛)というものです。 ですから、自己を忘じることによって「この世界…

懺悔(さんげ)6

懺悔というのは自分が無くなることです。 自分の取り計らいによって、 「私はこういうことをしました、ああいうことをしました」 というのは、「告白する」ということですから、自分がまだ残って いるのです。 仏教でいう懺悔というのは、自分を本当に「空」…

懺悔(さんげ)5

「衆罪は霜露のごとく、慧日能く消除す」とは、懺悔というのは 智慧の光によってきれいになくなることです。 仏教では「なくなる」というのは「同化する」という意味です。 「同化する」とは、融合するとか、溶け合うとか、ひとつに成る ことであって、消滅…

懺悔(さんげ)4

悪いことだけが懺悔出来て、善いことだけが残っているというのは、 ありえないことです。 ですから、悪いと言われることだけが懺悔だということになると、 「実相は無相である」ということからいえば、本当の意味の無相 にはなりません。 「端坐して実相を思…

懺悔(さんげ)3

「真に坐禅をするということは、自他の見をなくした人の仏行である」 といえます。 「人若し懺悔せんと欲せば」とは、これは自分が過去において 作ってきた一般的にいうもろもろの悪いことだけを懺悔するのでは ありません。 善いことも悪いことも懺悔するの…

懺悔(さんげ)2

「普賢経(ふげんきょう)というお経の中に、 「人若し懺悔(さんげ)せんと欲せば、端坐して実相を思え、 衆罪(しゅざい)は霜露のごとく慧日(えにち)能く消除す」 というお言葉があります。 仏道というのは懺悔から始まって懺悔に終わるということです…

懺悔(さんげ)1

仏教では「懺悔(さんげ)」と読みます。 「懺悔」とは仏様に懺悔するのではありません。 仏様の教えにしたがって自分が自分に向かって懺悔をするということです。 「私は昔、いろいろな事をしました。貪りと愚かしさと怒りから様々な 煩悩が出て来ました。…

煩悶

ある僧問う。 「煩悶はどのようにしたら取り除くことができるでしょうか」と。 師、答えて曰く、 「煩悶は煩悶の天地ではないか、どこへも行きようがないではないか」と。 どういうことかというと、満身も満天地も皆、煩悶に成れば 煩悶の相手がないから、「…